被爆3世の語り部|ドライヘッドスパ専門店ハゼラン神戸店
- 三木

- 8月6日
- 読了時間: 3分
更新日:8月9日
本日、8月6日は亡き祖母の故郷、広島に心を寄せるため例年すべての業務を休業し、静かに平和を祈念する日とさせていただいております。
「綾子おばあちゃんのこと」
祖母はあの日、生存率が最も少なかったと言われている原爆投下1km圏内の舟入町に暮らしていました。
当時、健康な男性はみんな戦争に出ていていたので、女性は朝早くから働きに出ていました。祖母も2人の幼い女の子(6歳)と男の子(4歳)を母親に預けて、朝から出社していました。
1945年8月6日8時15分。猛烈な熱波を感じ、とっさに側にあった水槽の水を被ったと聞いています。
(原爆資料館にも、尋常ではない灼熱の爆風が広範囲に広島を襲ったという記録があります)
物陰に居て一命を取り留めましたが、このとき、祖母の頭の皮はズルむけたそうです。
急いで自宅に戻りましたが、倒壊した門で入口が塞がっています。炎で焼け落ちていく家の中から、母の最後の叫び声が聞こえました。
「ここに居たらあんたも焼け死んでしまう!
ここから離れて、鉄ちゃん(弟)を探しんさい!」
その言葉を聞き、涙ながらに家を離れた祖母は翌日、何かあったらここで落ち合おうと約束していた場所(八日市の役所前広場)で、弟さんと再会することができました。舟入町からは距離的に離れた場所でしたが、役所前まで行けば助けて貰えるだろうと予想していたそうです。
事実、役所前広場に避難してきた人たちにはおにぎりなどの食べ物を配って貰えたそうですが、それよりも命を救う結果となったのは、即座に爆心地を離れたことです。
当時、残留放射線の恐ろしさは知られていませんでしたが、その場に居た人たちは原爆投下時はその場に居なかった人も残留被曝を受けてたくさんの人が亡くなったそうなので、祖母の賢明な判断があってこそ、後世に命が繋がっているのでしょう。
家は跡形もなく焼け落ち、親と我が子の遺骨のひとつも見つけられるなかったそうです。それからは、どこを歩いても祖母や我が子の散らばった骨の上を踏んでいるようで、舟入町にはとてもいれなかったそうです。
親戚の家を頼りましたが、「火垂るの墓」と同じように邪魔者扱いされてしまった?ようで…祖母は知恵を働かしてどうにか調達した資金で木材を購入し、ほったて小屋を作って女手一人で弟を守り抜きます。その後、戦争から奇跡的に生還した祖父と再会を果たして、後世に命を繋いでくれました。
私の母は、そんな祖母と帰還した祖父の間に戦後生まれた、被曝2世です。耐え難きを耐え、命を繋いでくれた祖母のお陰で私が居て、HAZERANがあります。
私は日本発祥技術であるドライヘッドスパを通して目の前の人に「あなたという命の尊さ」を伝え続けるとともに、今を生きる人や100年先の未来に「平和への願い」を送り伝えていきたいと思っています。
戦争のない日常が何よりの幸せです。最後までお読みいただき、ありがとうございます。



