今日は長崎に心を寄せながら、広島の原爆生存者である祖母の話をします。
(良かったら8/6の記事もご一読ください)
原爆が投下された時、祖母の綾子ばあちゃんは27歳、弟の鉄次郎さんは 14歳で中学2年生。2人は13歳離れた姉弟でした。
綾子ばあちゃんが急いで家に戻った時、コンクリートの塀が爆撃で破壊され、玄関を固くふさいでしまっていて中に入れませんでした。これが親子供たちと生き別れることになる、決定的な運命の分かれ道となりました。
それで母親が、「このまま家のそばにいたらあんたも焼け死んでしまう! すぐに家から離れて、てっちゃんを探しんさい!」と 言ったそうです。
綾子ばあちゃんは、泣きながら母の言うとおり弟の鉄次郎さんを探すことにしました。
14歳の鉄次郎さんは学徒動員で働かされていて、原爆直後は近隣地域の救助係に当てられたため、お昼頃になってようやく家に帰っても良いと言われたそうです。自宅に戻れた頃には家はすっかり焼け落ちていて、跡形もありませんでした。
さらに、屋内にいたときに誰かに靴を盗られて?誤って履き違えて?自分の靴が無くなっていて、裸足で移動せざるを得なかったそうです。
姉の綾子ばあちゃんと常々、何かあったら、五日市の市役所の広場で落ち合おう、と話していたそうで、裸足で黙々と市役所の広場を目指して歩き続けたそうです。
炎天下で道路は熱く、石ころもたくさんあるじゃり道を2時間ほどかけて…当然、足の裏は火傷と擦り傷ができ、ボロボロになりながら。必死で約束の場所を目指して歩きました。
ようやく市役所の広場に到着しましたが、その日は会えなかったそうです。翌朝、明るくなってから2人の姉弟は広場で感動の再会を果たしました。
広島の鉄次郎叔父さんからこの話を聞けたのは、2015年です。
綾子ばあちゃんは、母と子どもたちを救えず、見殺しにしてしまった…!という自責の念で、原爆の話を封印してしまっていました。
想像を絶するほど辛く重い記憶は、誰にも話せないものです。私は祖母の気持ちが少し理解できます。
こうして皆さんにお話しできるようになるまで、長い年月がかかりました。それだけ被爆者の声は貴重なのです。私には平和を祈念し、語り継いでいく使命があります。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
Kommentare